2013.11.27

タイトル「プ〜太郎のまんまで」についての、ちょっとした思い出話

前回スタッフブログに書き込みをしたのは、何と2年も前(!)のことになる。いや~、随分と寝かせたね~というわけで、心機一転、久しぶりの書き込み復活。しかも僕専用のコンテンツまで作ってもらって、こりゃまた気合いも入るってなもんだ。まあ、文章が無駄に長い(文章の長さと文章の充実度は決して比例する訳ではない)せいで他の書き込みメンバーの迷惑になる、という理由もあるが。
というわけで記念すべき復活第1弾のお題目は、僕専用コンテンツのタイトル「プ~太郎のまんまで」について。実はこのタイトルそのものは随分と前から決めていて、初回に書き込みたい内容も考えていた。
さて、そもそも「プ~太郎」とは何ぞや? とりあえずwikiで調べてみると、「就労可能な年齢にありながら無職でいるもの」とある。それでいくと当節流行の「ニート」なんてのもここに入る訳なんだろうけれど、僕が考えるプ~太郎は「ニート」とは少々意味合いが違う。というのも、まず自力でお金を稼いで生活していることが条件だからだ。しかし、それは定職ではなく、立場も正式な社員ではない。要するにアルバイト等で食いつなぎながら、日々を暮らしている状態のこと。「それって結局フリーターってことでしょ」と言われば確かにそうなる。派遣や日雇いの「非正規労働者」なんてのも当てはまるかも知れない。それでも僕がプ~太郎という言葉にこだわるのは「定職に就いていない理由」なのである。そこが「プ~太郎」と「一般的なフリーター」との違いになると思うからである。

僕は過去、スタッフブログで20代前半に東京で暮らしていたときのことを何度か取り上げたことがある。その頃、僕を含めて多くの友人たちの多くは「フリーター」だった。定職を捜そうともせずバイト生活を送りながら、それぞれに勝手な夢や目標を妄想する「夢見るフリーター」だったのだ。ミュージシャンになりたい、マスコミ業界に入りたい、作家になりたい、よく分からないけどとにかく有名になりたい。なんだかんだ理由をつけても結局のところ、普通のサラリーマンにはなりたくない、自分はそんな人間じゃない、などと考えている連中。勝手な夢や目標を捨てきれず、定職に落ち着くこともせず、恐らく若者にだけ許されているであろうモラトリアムの中で日々を過ごしているもの、それが僕の考える「プ~太郎」なのだ。定職に就く、まともな社会人になる、それは「夢をあきらめること」だと信じ込んでいたのである。
だからプ~太郎は人生を悲観などしていないし、逆に夢のあるものだと考えていたりする。最もそれは根拠も何もない「思い込み」なのだが、そう思い込むことが日々の原動力になっていたのも確かなのだ。僕も含めて東京で暮らす地方出身者は、当然のことながら一人暮らしをしているわけで、働かないことには生活ができない。ニート状態には、なりたくてもできなかったのだ。だからアルバイトを渡り歩きながら、とりあず生計を立てるしかない。今はアルバイトとはいっても求職状況も厳しくなっているんだろうけど、その頃はバイト先も仕事の種類も豊富にあって、とりあえず自分一人が食べていくには不自由は無かった。
僕にとって「プ~太郎」は、そんな時代を懐かしくも恥ずかしく思い返すことのできる言葉なのである。
過去のスタッフブログを覚えている人は分かるだろうけど、僕は20代前半の東京時代、情報誌「ぴあ」で約1年間、アルバイト生活をしたことがある。そこでは僕と同じように多くの若者たちが「夢見るフリーター」として働いていた。自分なりの夢を追いかけている人もいたし、個性の強い連中も多かった。
その時の仲間に「番頭さん」という男がいた。番頭さんというのはもちろん、彼のニックネーム。本名は伊東敏也というのだが、出身が静岡県だった。静岡といえば温泉が有名だ。最も有名なのは熱海市だが、隣接する伊東市も温泉地として人気が高い。西日本の人には馴染みが無いだろうけど「伊東に行くならハトヤ」のCMソングで知られる温泉旅館、ハトヤ旅館があるのも伊東市。番頭さんは伊東市の出身では無かったが、どうやっても温泉を連想してしまう伊東という名字、そしてずんぐりむっくりの体型に愛嬌にのある顔立ちが何となく温泉旅館の番頭さんを思わせる、ということでその名が付けられたのである。
番頭さんはテレビ番組を紹介するページを担当していたのだが、仕事量的にはそうハードなセクションでは無かった。日によっては午前中で仕事が終わることもある。あるとき、帰り支度をする番頭さんに「これからどこへ行くの?」と尋ねると「松竹に行くんだよ」と返事が返ってきた。「松竹?」何かのお店の名前かと思って聞いてみると、映画会社の松竹だという。実は番頭さんは日大の芸術学部で映画を勉強していて、将来は脚本家を目指していたのだ。もちろん松竹に行くといっても、仕事で呼ばれている訳ではない。しかし松竹の社内をウロウロし、顔見知りになったスタッフの人を見つけると手当り次第に「何か出来る仕事ありませんか」と訊ねるのだという。つまりは番頭さんなりの「営業活動」だったのだ。

番頭さんは日大芸術学部のある江古田のアパートに住んでいた。私鉄の西武池袋線に乗って池袋より3つ目の駅、学生の姿も多い私鉄沿線の下町といった感じだ。その江古田の駅から歩いて3分くらいのところに「ぎんなん」という名前の居酒屋さんがあった。番頭さん行きつけでもあるこのお店、床はコンクリートの土間、パイプイスが並んだテーブルが4つほど。パイプイスはよくある座面の真ん中に穴の開いたやつで、何の飾り気も無い質素過ぎる内装だった。確か年配のご夫婦が経営されていたと記憶しているんだけれど、住居とくっついた造りになっていて、お店のトイレに誰か入っている時は仕方なしに住居の方のトイレを使わせてもらう。廊下で家族の人と鉢合わせて「あ、どーも」とか、そのあたりのアバウトさも面白かった。
最初は番頭さんに連れてきてもらったこのお店、僕は何故かとても気に入った。お店でよく飲んでいたのはサワー、今ならチューハイといった方が分かりやすいかな。これが一杯何と100円、しかもやたらとアルコール濃度が高いから3~4杯も飲むとかなりいい気分になる。(僕もお酒にそう強い方じゃ無かったしね)だから、つまみ代わりのおでんをいくつか頼んでも驚くほど安上がりになる。こいつは財布の軽い僕たちにとって何より嬉しいことだった。
番頭さんや「ぴあ」のバイト仲間と「ぎんなん」で激安サワーを飲みながらぐだぐだと他愛もない話をしていると、えらく遅い時間になりいつの間にかお客さんが僕たちだけになってしまうこともある。そうするとご主人は「早く帰れ」とも言わず、自分はさっさと住居の方へ引き上げてしまう。となると仕方なしに僕たちは無人になったカウンターの鍋から勝手におでんを取ってつまんだり、もちろん勘定のときには取った数をご主人に報告するのだが、こちらも酔っていることもあり正確な数など言った試しが無い。それでも文句を言われたことなど一度も無い。そんなゆるい感じも大好きだった。ちなみにこの「ぎんなん」というお店、江古田で検索すると今でも見つけることができる。当然、店構えは全然違うし、あの「ぎんなん」かどうかは分からない。しかし場所は江古田駅のすぐ近くだし、あれから30年、もしお店が続いていてくれたのなら嬉しい。
そんなこんなでお店を出る頃になると電車も無くなっているし、番頭さんのアパートに転がり込んで雑魚寝するというのがお決まりのパターン。そこでよく見せられるビデオがあった。それは「名探偵ホームズ」というアニメ番組。何せ大昔の番組だから知らない人も多いだろうけど、登場人物をすべて犬が擬人化した30分のテレビアニメだ。その番組が脚本を一般公募した回があって、それに番頭さんの応募作が採用されたのだ。だからその回の番組エンドロールには、脚本担当として番頭さんの本名である伊東敏也の名前が登場する。その画面を見るときの番頭さん、何とも言えないいい表情をしていた。子ども向けアニメ番組とはいえ、脚本家としての輝かしいデビュー作なのは間違いない。しかも、その回の演出は何とあの宮崎駿だったのだ。向こうは一般公募で採用された脚本の作者も、その素性も興味ないだろうが番頭さんにしてみれば宮崎駿との共演が実現したことになる。当時の宮崎駿はまだスタジオジブリを設立する前だったけれど「ルパン三世カリオストロの城」などで注目を浴び、僕たちにとっては雲の上の、そのまた上の存在だったから番頭さんにしてみればホント夢の共演というわけだ。
前述のように番頭さんの故郷は静岡県。彼は脚本家になる夢を追いかける時間を自ら決めていた。それは2年間。2年間頑張ってチャンスを掴めなかったら、脚本家になる夢はあきらめて静岡に帰る。それが番頭さんが決めた「夢実現へのタイムリミット」だった。
「2年後、もし夢かなわなかったら、俺は静岡に帰る東京駅のホームで泣くと思う。」
番頭さんはよくそう話していた。その頃、僕も含めたプ~太郎たちの多くは明日をも知れないフリーター生活を「夢を追いかける」という言い訳でごまかしていたと思う。それがただの甘ったれた現実逃避の言い訳でしかないことも分かっている。しかし、そんな仲間同士の浮世離れした夢の話は、まるで麻薬のように時の流れを麻痺させてくれるものなのだ。いつまでもこんな生活を続けるわけにはいかない。若さにかまけたモラトリアムが永遠に許される訳ではない。どんなに強がっていても時間は流れるし、歳も取っていく。それは頭では分かっていても言葉に出すことが怖かった。
そんな中、現実をしっかりと見つめ、自らに厳しくタイムリミットを課した番頭さんの決意。僕は正直、番頭さんを羨ましいと思った。そこまで自分を厳しく追い込むことのできる彼がとても羨ましかった。もし夢破れ、東京駅のホームで涙を流すとしても、それは精一杯力を尽くした上での涙。曖昧な自分自身を日々ごまかしているような人間には、決して流すことのできない涙なのだ。

当時、日本のミュージックシーンでは尾崎豊が一大ブームを巻き起こしていた。まだ10代だった尾崎は、ティーンエイジャーの苦悩や怒りを歌にぶつけて「10代の教祖」などと呼ばれカリスマ的人気を誇っていた。僕たちは既に20歳を過ぎていたから、直接尾崎豊に熱狂することは無かった。むしろ冷ややかに見ている部分が大きかった。尾崎本人はもちろん、彼に熱狂する世代も自分たちより年下であり、ヒートアップする人気への皮肉もあってどうしても上から目線になってしまっていたのである。
「尾崎の歌ってることって、結局10代の頃なら誰でも思うことじゃん。」
「ぎんなん」での飲み会のとき、誰かがこんな発言をした。10代の頃なら誰しもが思う社会の矛盾、大人への反抗、ただそれを歌にするだけなら誰にでもできるんじゃないか。どうも批判の趣旨はそういうことらしい。しかし音楽の基本は自らの主張であり、それはそれで何の問題も無い。ただ尾崎に純粋に熱狂できる世代への嫉妬と、ブームに対するひねくれた批判家根性。それが皮肉めいた意見になってしまっただけのことだ。ひとしきり話が盛り上がった後、番頭さんはこんなことを言った。何故か今でもよく覚えている。
「でも尾崎がいい大人になったとき、どんなふうに歌うのか、聴いてみたい気がする。」
10代の尾崎が歌う10代の怒り。しかし、尾崎が30代、40代になったとき、同じような怒りを持って歌えるのか。「15の夜」や「卒業」や「17歳の地図」などの曲は今と同じように輝いているのか。残念ながら尾崎は「いい大人」になる前にこの世を去ってしまった。
今の怒りを、輝きを、大人になっても失わずにいられるのか。番頭さんの言葉は僕の心にも重く響いた。それは「夢を探す」などという理由を付けて日々を何となく過ごしている自分たちに突きつける「時が流れて大人になったときに同じことが言えるのか」という問いかけでもあったからだ。番頭さんは2年間というリミットを決めることでその答えを出そうとしている。この先、僕たちはどうするべきなんだろうか。その夜の「ぎんなん」で飲んだ一杯100円サワーの味はいつにも増してアルコール濃度が高かったような気がした。いっそのこと不安も迷いも酔いと一緒に流れてくれればいいと思った。

その翌年、僕は東京を離れ故郷に戻った。番頭さんとも当時の仲間とも疎遠になる。番頭さんのその後が気にならなかった訳ではないけれど、やはり東京は遠過ぎる。もちろん調べる術も無い。僕も故郷で就職し日々の仕事に忙殺され、当時のことも記憶から消え去っていった。しかし、やがて時は流れてインターネットなるものが登場する。世界中の情報が瞬時に検索できる魔法のような機能。となるとどうしても、かつての知り合いの名前を検索してみたくなる。
実は一度、伊東敏也の名前で検索をしてみたことがある。すると出てくるのは「名探偵ホームズ」の作品リストに関する情報。ある回の脚本に伊東敏也の名前、それは番頭さんのアパートで見たあの番組だ。しかし、それ以外に番頭さんに関する情報が見つからない。もし脚本家として活動しているのであれば、他にも引っかかる情報はあるはずだ。「名探偵ホームズ」の情報しか見つからないとなれば、残念ながら番頭さんの脚本家への夢は潰えたということになる。東京駅のホームで涙をこらえる番頭さんの姿が思い浮かんだ。今頃は静岡で普通に暮らしているのだろうか。結婚して子どもがいたりするのかも知れない。多分、子どもにあのビデオを見せて自慢でもしてるんだろうな。パパは宮崎駿とも共演したことがあるんだぞ、なんて話してあげているんだろう。僕は番頭さんの人懐っこい笑顔を思い出しながら、彼の幸せを心から願った。
そしてさらに時は流れて2012年、僕はこのコンテンツへの最初の書き込みに番頭さんのことをぜひ取り上げてみたいと思っていた。そこで久しぶりに伊東敏也の名前をネットで検索してみたのである。すると引っかかってくるのは昔と同じ「名探偵ホームズ」の作品リスト。ところが他の情報をいろいろと検索している内に「いとう斗士也(としや)」という名前の脚本家に辿り着いた。そしてその紹介の文章を見て驚いた。
『1984年、テレビアニメ「名探偵ホームズ」でプロットライターとしてデビュー』とあるではないか。
そう「いとう斗士也」とは紛れも無い、伊東敏也その人だったのだ。僕は今まで本名の伊東敏也としてしか検索していなかったが、脚本家なら当然ペンネームを使っている可能性もある。道理で伊東敏也では何の情報も得られなかった訳だ。そしてさらに驚いたのは「いとう斗士也」の経歴だ。
1987年「あぶない刑事」で脚本家デビュー、1994年にはドラマ「家なき子」のメインライターを担当したとある。「あぶない刑事」といえば、舘ひろしと柴田恭兵がスタイリッシュな刑事を演じた大人気の刑事ドラマだ。続編が何度も制作され、映画化もされている。また「家なき子」は安達祐実が子役ながら鮮烈な演技を見せ、最終回の視聴率は37%を記録したというこれまた人気のドラマ。劇中で彼女が放つ「同情するなら金をくれ」の強烈な決め台詞は当時流行語にもなった。そのメインライターを務めたとなればこれはもう脚本家としては一流の評価ではないだろうか。
僕が番頭さんから「あと2年」という言葉を聞いたのは確か1984年のこと。「あぶない刑事」での脚本家デビューが1987年だから数えて3年目のことになる。恐らく2年間のあいだに何らかの手応えを掴んだに違いない。そして番頭さんは見事に夢を叶えたのだ。
その事実を知ったとき、何か熱いものがこみ上げてくるのを抑えられなかった。江古田の安アパートの部屋で「名探偵ホームズ」を見ながら、エンドロールの自分の名前をうれしそうに眺めていた番頭さん。「東京駅のホームできっと泣くだろうなあ。」と少し悲しそうな目で呟いた番頭さん。頭の中にいろんな情景が浮かんでは消える。ほぼ30年越しに知った番頭さんの夢の行方、それはあまりにも鮮やかで眩しいものだった。

冒頭、僕は「プ~太郎」の定義を「自分の夢や目標を捨てきれず、定職に落ち着くこともできず、恐らく若者にだけ許されているであろうモラトリアムの中で日々を過ごしているもの」と書いた。でも人間、生きている限り誰もがみな「プ~太郎」では無いかと思ったりするのだ。理想の自分、それは生きている限り誰もが模索し続けているもののような気がする。モラトリアムとは「一人前の人間となることを猶予されている期間」ということらしい。理想の自分を見つけることを、一人前の人間となることと置き換えてみると、人間の一生は終わりの無いモラトリアムなのでは無いかとも思ったりする。
「自分の居場所を見つけ、自分の役割を演じていても、誰もが満たされない心を持っている。」
これは僕が自分の人生観に大きな影響を受けたアメリカのロックミュージシャン、ブルース・スプリングスティーンのヒット曲「Hungry Heart」の一節だ。もし人は誰も満たされない心を持って一生を過ごすのであれば、人の一生って「プ~太郎のまんま」なのかも知れない。
「プ~太郎のまんまで」というコンテンツタイトルには、僕なりにそんな思いを込めてみている。もちろん求めるものをすべて手に入れて、満たされた人生を送っている人もいるだろう。自分の人生こそが世界で最高だ、と思っている人だっていると思う。でもふと一人になったとき、何を思うんだろう。違う人生を思い描いてみることだってあるんじゃないだろうか。
実は「まんまで」という言葉は、尾崎豊をデビュー当時から取材してきた落合昇平さんが尾崎についてまとめた著書「未成年のまんまで」のタイトルに惹かれて付けさせてもらった。尾崎が未成年のときのままの純粋さで生涯を駆け抜けたのと同じように、プ~太郎のままの青臭い理想論とやり場のない不安感を忘れたくないと思うからだ。そして1984年を思い出すとき、「プ~太郎」だった自分を思い出すとき、番頭さんと同様、尾崎豊という存在は僕にとって欠かすことのできない存在でもあるからだ。
番頭さん、いや、いとう斗士也氏はもう違う世界の人になってしまった。しかし、どんなに遠くの場所でも見上げる空がどこかでつながっているように、ふと「ぎんなん」でのことを思い出すことがあるかも知れない。そして彼の心のどこか片隅にでも「プ~太郎」だった日の思いが残っていることを願ったりする。

というわけで今回のお話はこのあたりで。今後もこんな感じの世迷い言を徒然なるままに発信していきたいと思うので、もしよろしかったら末長いご愛顧の程、ぜひぜひよろしくです。最後までお付き合いいただいた皆様、ありがとうございました。また、文章はすべて僕自身の拙い記憶に基づいたものであり、事実と違うことも多いはず。ぜひご了承願えればありがたいなっと。
さて、次回は最近僕が“ど”ハマりしている、とあるアイドルグループをお題目にする予定。いや~、ここまでハマるとは僕自身も驚いているんだけどね。でも現象には必ず理由がある(あれ、どこかで聞いたような?)。乞うご期待ください。

  1. <